不幸であり続ける意味 [カウンセリング]
前回の更新でもお伝えしたように、私の仕事に付随するカウンセリング的な業務から、カウンセラーとしての気づきや意見を書いていきたいと考えています。
その前提として、このカテゴリーを読む読者はカウンセラーあるいはカウンセリング心理学を多少なりとも勉強していると捉えています。
そこでお願いがあるのですが、ここで書かれている内容を、正解だとか正しい方法だとか考えないでくださいね。
私の意図は、こうした内容を叩き台として、皆さんそれぞれのカウンセラーとしての気づきや成長に結びつけてもらうことですから。
「まだ2級試験の合否も分からないのに、えらそうな!」という意見もおありかと思いますが、まぁ、あくまでも私見ですし、それに業務に付随したカウンセリングの経験は8年ほどあるという事で、どうか大目に見てくださいませ(笑)。
少し前の話。
「仕事がうまくいかない」という問題で私のところに、あるクライエントが来ました。
年齢は40代。女性で美術関連の仕事をずっと続けていたのですが、どうしても、ある目標が達成できないという事でした。
そこで、私たちは発生しうるリスクや達成するべきタスクを整理し、ひとまず大まかな方針の決定を行いました。
ただ、「どうすればいいか」は明確な指針が生まれたのですが、そのクライエントが指針通りの行動をこなせるように思えませんでした。
理由は、明らかにリソースの不足。
目標達成のための基盤となる思考力や精神的な安定、柔軟性が完全に失われている状態でした。
そこで、私がそのことを指摘すると、クライエントはある告白をしました。
「実は、うつ病なんです。そして、統合失調症の可能性もあります」
「・・・なるほど。それは正式な診断として、なんですか?」
「はい。お医者さんから言われました」
「では、現在その治療は?」
「全くしていません」
「・・・全くしていないんですね。何かご事情でも?」
「・・・・・・」
何か深い事情がある様子でした。
私の仕事の目的はカウンセリングではありませんし、クライエントが私に自身の抱えている問題の解決を求めないのであれば、強いて私の方から求める理由もありません。
そこで、その回はひとまず終了。タスクを確認して簡単な励ましとともに、クライエントを送り出しました。
しかしその後、予想通りクライエントは全く達成されていないタスクを手に、私のもとを訪れたのです。
その際、以下のような趣旨の会話が交わされました。
「実は、この結果はある程度予想していました」
「そうなんですか?」
「えぇ。前回、私がお話しした内容を覚えていますか?ご自身の健康問題について」
「えぇ」
「それが障害を形成しているというお話もしましたよね?」
「はい」
「それが足かせとなって、ご自身の行動を束縛していると思いませんか?」
「思います」
「その自覚はあるのに、でも病院で治療をしようとはなさっていない。・・・お話しいただけませんか?」
「治ったら・・・私じゃなくなるんです」
う~ん、なるほど。そう来たか!
「私が変わったら、何かを失ってしまう」
先のクライエントのケースは確かに極端な例ですが、しかし、似たような事柄は日々私たちも経験しています。
交友関係や仕事なので、「どうして私がそこまでしなくてはならないの?」と日常で思う場面が、まさにそれに当てはまります。
しかし、これが大きくなってさらに信念体系にまで根ざしていしまうと、解きほぐすのは非常に困難となります。
わかりやすい例をあげると、共依存関係などが典型例でしょう。
仮にここにヒモの男性と、それを養う女性がいるとします。
女性側は、自分が援助することによって、仕事をしようとしない相手の問題を拡大させてしまう事は頭では分かっている。そして、そうした関係の中にある自分自身は不幸だという自覚はある。
しかし、その自分を不幸から抜け出そうとするのであれば、相手を失ってしまう。
この場合、「不幸な自分」と「相手」の存在はトレードオフの関係になります。
そうなると「失いたくない」という恐怖が根本的な問題から足を遠のかせてしまうのです。
私は医者ではありませんので、統合失調症もうつ病も治せません。
ただ、クライエントが私にゆだねてきた課題を達成するためには、どうしても専門医師による治療をしてもらう必要があります。
しかし、こうした場合に説得が功を奏する訳がない。
なぜなら、そのクライエントは「変わらない」ことで、大切な何かを守っているから。
共依存やアダルトチルドレンの解決には、本人の自覚がどうしても必要になります。
これは、その自覚がないと自分を変えるというモチベーションが働かず、その結果解決のための技法が全く用いられないからです。
このクライエントは発達段階では1段階と判断できます。
この場合、ある程度積極技法を用いて・・・という話になります。
ただ、無理に積極技法を用いても、こうしたケースではクライエントの思考が上手に働かないので、あまり効果的ではありません。
積極技法は、相手にある程度のリソースがあってこそ意味がある技法なのです。
そこで、まずこのままでは問題があるのではないかという気付きを促すために、辛抱強く傾聴を行っていきました。
聞く内容は、生活全般の事柄を中心に、そこにある感情や感覚、特に不都合な面や感情的にネガティブになりやすい面となります。
そこを中心に傾聴をすることで、クライエントは自分の置かれている状態を客観化できるようになっていきました。そして、その状態になった頃を見計らって、論理的帰結や対決技法を用いる、という方法をとりました。
その結果、そのクライエントは無事に治療を再開してくれたのですが、この事例で印象に残ったのは、先述したようにある利得あるいは損失によって、「ある状態にい続ける」動機が生まれるという事と、自己を客観化できないがゆえに、どう考えても不幸な習慣を、何の疑問もなく続けてしまうという怖さです。
どれほど才能やチャンスに恵まれていても、人間的あるいは習慣的な問題によって、それが活かされないばかりか逆の方向に行ってしまうというケースは多々あります。
その時、私たちの脳裏の片隅には「〇〇するべきでは?」という疑問が立ち上ることがあります。しかし、その疑問の声は私たちの「こうありたい!」というある種の頑迷さによってかき消されます。
私は、真の柔軟性とは何かを、そしてそれを阻むものは何かを考えます。
柔軟性を選ばなければならないとき、私たちは失う事と、自分の尊厳が損なわれることを恐れます。
その時、私たちは自分に対して「大丈夫。何も失わないよ」「変えたからと言って、君が間違っていたことを意味しないんだよ」と言えるでしょうか?
私には、それが非常に難しく思えます。ゆえに私たちはそばにいてくれる誰か――恋人や家族、またはカウンセラー――を、心から必要とするのではないかと思うのです。
カウンセラーの受容とは、クライエントの変容の際に必ず生じる恐怖や惨めさに対して、安全な場所を提供し、その中でクライエントが変わるという経験の最もミニマムな「予行演習」を安心して行えるよう、手助けをすることではないかと考えます。
そこでは傷つくこともなく、自分の尊厳を失い事もなく、当然何かを失う事もなく、思う存分検討を繰り返すことができる。その繰り返しによってクライエントは変容し、柔軟性を回復し、そして再び「外」へ出ていくのではないかと思うのです。
不幸であり続けることにも意味があります。
それは、確かに私たちを苦しめはするのでしょうが、しかしそうでもしないと守れない「何か」が必ずあるのです。
そして、それを守るために私たちは不幸を抱えたまま孤独になっていきます。
その何かを失うことなく、不幸を手放す最良の方法は、孤独からの解放であり、関係性での癒しなのでしょう。
ではでは、今日はこの辺で。
その前提として、このカテゴリーを読む読者はカウンセラーあるいはカウンセリング心理学を多少なりとも勉強していると捉えています。
そこでお願いがあるのですが、ここで書かれている内容を、正解だとか正しい方法だとか考えないでくださいね。
私の意図は、こうした内容を叩き台として、皆さんそれぞれのカウンセラーとしての気づきや成長に結びつけてもらうことですから。
「まだ2級試験の合否も分からないのに、えらそうな!」という意見もおありかと思いますが、まぁ、あくまでも私見ですし、それに業務に付随したカウンセリングの経験は8年ほどあるという事で、どうか大目に見てくださいませ(笑)。
少し前の話。
「仕事がうまくいかない」という問題で私のところに、あるクライエントが来ました。
年齢は40代。女性で美術関連の仕事をずっと続けていたのですが、どうしても、ある目標が達成できないという事でした。
そこで、私たちは発生しうるリスクや達成するべきタスクを整理し、ひとまず大まかな方針の決定を行いました。
ただ、「どうすればいいか」は明確な指針が生まれたのですが、そのクライエントが指針通りの行動をこなせるように思えませんでした。
理由は、明らかにリソースの不足。
目標達成のための基盤となる思考力や精神的な安定、柔軟性が完全に失われている状態でした。
そこで、私がそのことを指摘すると、クライエントはある告白をしました。
「実は、うつ病なんです。そして、統合失調症の可能性もあります」
「・・・なるほど。それは正式な診断として、なんですか?」
「はい。お医者さんから言われました」
「では、現在その治療は?」
「全くしていません」
「・・・全くしていないんですね。何かご事情でも?」
「・・・・・・」
何か深い事情がある様子でした。
私の仕事の目的はカウンセリングではありませんし、クライエントが私に自身の抱えている問題の解決を求めないのであれば、強いて私の方から求める理由もありません。
そこで、その回はひとまず終了。タスクを確認して簡単な励ましとともに、クライエントを送り出しました。
しかしその後、予想通りクライエントは全く達成されていないタスクを手に、私のもとを訪れたのです。
その際、以下のような趣旨の会話が交わされました。
「実は、この結果はある程度予想していました」
「そうなんですか?」
「えぇ。前回、私がお話しした内容を覚えていますか?ご自身の健康問題について」
「えぇ」
「それが障害を形成しているというお話もしましたよね?」
「はい」
「それが足かせとなって、ご自身の行動を束縛していると思いませんか?」
「思います」
「その自覚はあるのに、でも病院で治療をしようとはなさっていない。・・・お話しいただけませんか?」
「治ったら・・・私じゃなくなるんです」
う~ん、なるほど。そう来たか!
「私が変わったら、何かを失ってしまう」
先のクライエントのケースは確かに極端な例ですが、しかし、似たような事柄は日々私たちも経験しています。
交友関係や仕事なので、「どうして私がそこまでしなくてはならないの?」と日常で思う場面が、まさにそれに当てはまります。
しかし、これが大きくなってさらに信念体系にまで根ざしていしまうと、解きほぐすのは非常に困難となります。
わかりやすい例をあげると、共依存関係などが典型例でしょう。
仮にここにヒモの男性と、それを養う女性がいるとします。
女性側は、自分が援助することによって、仕事をしようとしない相手の問題を拡大させてしまう事は頭では分かっている。そして、そうした関係の中にある自分自身は不幸だという自覚はある。
しかし、その自分を不幸から抜け出そうとするのであれば、相手を失ってしまう。
この場合、「不幸な自分」と「相手」の存在はトレードオフの関係になります。
そうなると「失いたくない」という恐怖が根本的な問題から足を遠のかせてしまうのです。
私は医者ではありませんので、統合失調症もうつ病も治せません。
ただ、クライエントが私にゆだねてきた課題を達成するためには、どうしても専門医師による治療をしてもらう必要があります。
しかし、こうした場合に説得が功を奏する訳がない。
なぜなら、そのクライエントは「変わらない」ことで、大切な何かを守っているから。
共依存やアダルトチルドレンの解決には、本人の自覚がどうしても必要になります。
これは、その自覚がないと自分を変えるというモチベーションが働かず、その結果解決のための技法が全く用いられないからです。
このクライエントは発達段階では1段階と判断できます。
この場合、ある程度積極技法を用いて・・・という話になります。
ただ、無理に積極技法を用いても、こうしたケースではクライエントの思考が上手に働かないので、あまり効果的ではありません。
積極技法は、相手にある程度のリソースがあってこそ意味がある技法なのです。
そこで、まずこのままでは問題があるのではないかという気付きを促すために、辛抱強く傾聴を行っていきました。
聞く内容は、生活全般の事柄を中心に、そこにある感情や感覚、特に不都合な面や感情的にネガティブになりやすい面となります。
そこを中心に傾聴をすることで、クライエントは自分の置かれている状態を客観化できるようになっていきました。そして、その状態になった頃を見計らって、論理的帰結や対決技法を用いる、という方法をとりました。
その結果、そのクライエントは無事に治療を再開してくれたのですが、この事例で印象に残ったのは、先述したようにある利得あるいは損失によって、「ある状態にい続ける」動機が生まれるという事と、自己を客観化できないがゆえに、どう考えても不幸な習慣を、何の疑問もなく続けてしまうという怖さです。
どれほど才能やチャンスに恵まれていても、人間的あるいは習慣的な問題によって、それが活かされないばかりか逆の方向に行ってしまうというケースは多々あります。
その時、私たちの脳裏の片隅には「〇〇するべきでは?」という疑問が立ち上ることがあります。しかし、その疑問の声は私たちの「こうありたい!」というある種の頑迷さによってかき消されます。
私は、真の柔軟性とは何かを、そしてそれを阻むものは何かを考えます。
柔軟性を選ばなければならないとき、私たちは失う事と、自分の尊厳が損なわれることを恐れます。
その時、私たちは自分に対して「大丈夫。何も失わないよ」「変えたからと言って、君が間違っていたことを意味しないんだよ」と言えるでしょうか?
私には、それが非常に難しく思えます。ゆえに私たちはそばにいてくれる誰か――恋人や家族、またはカウンセラー――を、心から必要とするのではないかと思うのです。
カウンセラーの受容とは、クライエントの変容の際に必ず生じる恐怖や惨めさに対して、安全な場所を提供し、その中でクライエントが変わるという経験の最もミニマムな「予行演習」を安心して行えるよう、手助けをすることではないかと考えます。
そこでは傷つくこともなく、自分の尊厳を失い事もなく、当然何かを失う事もなく、思う存分検討を繰り返すことができる。その繰り返しによってクライエントは変容し、柔軟性を回復し、そして再び「外」へ出ていくのではないかと思うのです。
不幸であり続けることにも意味があります。
それは、確かに私たちを苦しめはするのでしょうが、しかしそうでもしないと守れない「何か」が必ずあるのです。
そして、それを守るために私たちは不幸を抱えたまま孤独になっていきます。
その何かを失うことなく、不幸を手放す最良の方法は、孤独からの解放であり、関係性での癒しなのでしょう。
ではでは、今日はこの辺で。
タグ:心理学
傾聴と積極技法 [カウンセリング]
このブログは、私の日々の生活を何も考えずに書き連ねるという類のものですが、ちょっとは役立つ内容にしたいよね…と考えることもちらほら
そこでNLPやらTA講座を作っちゃおうと考えているのですが、なかなか時間がないねぇ~。
とか言っていると何も先へ進まないので、新しい企画。
私の仕事は限りなくカウンセリングに近くなることがあります。
そして、そうした仕事をかれこれ8年も続けています。
8年も効した仕事をしていて、かつカウンセリング心理学を勉強していると、様々な発見(と、それ以上の数え切れない失敗)があります。
そこで、そうしたカウンセリングの現場での発見や知識をお話ししていきたいと思います。
ただ、私は正式(?)なカウンセラーではありませんので(実際、肩書きは違うしね)、一般のカウンセラーとは全く違う事をしている場面も多々あります。
恐らく、カウンセラーとしてきちんと教育を受けた方からすれば、ツッコミどころ満載でしょう。
確かに、批判や反論は多々あると思います。
しかし、そうした批判や反論も含めて、これをご覧になっている方と「カウンセリングとは何ぞや?」を考えられたらなと思います。
という事で、第一回目は来談者中心療法と積極技法について
来談者中心療法の傾聴をトレーニングとして行っている場合、だいたい時間は10~15分程度の傾聴をやって、3分間の振り返りを行います。
その振り返りの際にクライエントの主訴と今後の見立てを行なうのですが、その際に「ラポールが築けたら積極技法を用いて…」という話をよく聞きます(実際、私もそう言う事も)。
ただ、実際のカウンセリングの現場では、傾聴技法と積極技法の間に、そう大きな壁があるわけではなく、むしろ傾聴と積極技法を行き来する事も多くあります。
ここで、一例として逐語録をご紹介します。
内容はクライエントのプライバシーに配慮して一部変更がしてあります。
クライエントは40代のシングルマザー。
離婚後、仕事をこなしながら子育てに励む生活をしている。
最近、ある男性と恋愛関係になったが、子供たちが彼に父親を求めることが多くなった。しかし、相手の男性は父親としての自覚が十分ではなく、その結果クライエントは彼との関係を終わりにした。
この記録はカウンセリング開始後10分程度のもの
CL:…子供たちの前でも、結構無神経な発言をするんです。「ママとは結婚しないよ」とか。それを言ったら、子供も傷つくじゃないですか。彼に父親を期待しているのに。なのに、彼は家族全員で彼の実家に遊びに行こうと言うんです。結婚する気もないのに!で、つい彼に厳しく言っちゃったんです。「自覚がないんだったら、もう来ないで」って。
CO:なるほど。彼はお子さんたちに対して無神経な発言をするのに、その一方で実家に誘ったりしたんですね。そして、お子さんたちは、それで傷ついてしまう。ゆえに「もう来ないで」と仰ったんですね(要約)。
「もう来ないで」と言った時の、ご自身のお気持ちは(ドアオープナー)
CL:う~ん、子供を守るためだから、しょうがないかなと。…ただ、もうダメですよね。彼との関係は、これで切れてしまいますよね?
CO:ご自身のお考えとしてはどうですか?(ドアオープナー)
CL:切れてしまうと思いますよ。
CO:切れてしまうと思われるんですね。確かに、そうした発言をしてしまうと、一般的には関係は損なわれるリスクが高まりますよね。
CL:あの時、私の中で「このままでよくない」という思いがあったんです。子供たちが彼のようになるのは避けたいし、子供が傷つくのは見たくないし。彼だって、「父親」になることから解放された訳ですから、きっとホッとしているはずです。
私は、ずっとみんなが納得できる方法はないかと考えていたんです。だんだんと彼と私との関係が接近してきて、子供たちは彼に父親を求め始める。中途半端な関係で子供が傷つくのであれば、切ってしまった方がいいと思いました。
(このあと、CLは5分ほど彼を切った理由について話し続けた)
CO:ご自身の彼との関係を終わりにした理由はよくわかりました。ご自身にとって、お子さんを守ることを優先するならば、彼との関係を切った方がいいと判断された訳なんですよね。
CL:えぇ。
CO:お話をお伺いしていると、彼との関係を終わりにしたことについて、ご自身なりに十分納得されているように思えます(この辺から積極技法。これは『自己開示』)。
CL:えぇ。しょうがないことですから。納得していますし、正しかったと思います。
CO:なるほど、納得もしているし、正しいとも思っている。
……お話をお伺いしていて、ふと感じたことがあります(以下、フィードバック)。
ご自身は、なぜ私に対して、終わったはずの出来事をこのようにお話しになるのでしょうか?
納得しているはずのご自身の行動のその動機を、私にお話しする事が疑問に感じます。
CL:………!
終わっていないんですね!
CO:えぇ、そのように聞こえます。
いま、振り返ってみて何か思う事や感じることはありますか?
CL:…私は、彼に望みをつないでいます。もう一度、関係をやり直したいと思っています。
結局、このカウンセリングはこのあと、80分近く行われました。
「自己開示」と「フィードバック」は積極技法の一つで、前者はクライエントにカウンセラーの感じ方や考えを伝えるもので、後者はカウンセラーや第三者がクライエントをどう見ているかという資料を提供するものです。
来談者中心療法の場合、カウンセラーはクライエントの心の鏡になる事によってクライエントの自己洞察の手助けをするものなのですが、それに対して積極技法は、直接クライエントに影響を与える事を目的としています。
私自身の場合、クライエントとのラポールも確かに重要ですが、実際に積極技法を使う場合、あまりラポールは考えません。
それよりもクライエントの状態の方により気を使います。分かりやすい言い方をすると、ある種の「タイミング」と言えばいいでしょうか。
先の例では、相手の男性と別れた事を「納得している」と言いつつ、クライエントはその理由を延々と私に話し続けました。そしてさらに、こうして関係が終わったことについて、彼も「ホッとしていると思う」という憶測を述べています。
この辺は、まるで自分に離別を選んだ事の正しさを言い聞かせえているように思えたのです。
そこで、別れた動機やそのときの感情を、とにかく話してもらいました。
そして、その時の感情や考えを、クライエント自身がよく吟味できるように促したのです。
その間、私は積極技法を使うタイミングをずっと見計らっています。
そして、クライエントの思いがピークに達したと判断された時、フィードバックを投げかけたのです。
結果はビンゴ。
クライエントは自分がまだ彼に望みを繋いでいることの気づきに突き当たりました。
この後、「先生、本当にありがとう!それを聞いてすっきりしました!」と何度も言われたのですが、それほどにクライエント(のみならず、問題の渦中にいる私たちにとって)自分の思考のループは根強いものがあります。
そうしたクライエントに対して、タイミングさえ誤らなければ積極技法は一気にクライエントのパラダイムを変えるきっかけを与えます。
裏を返せば、判断を誤るとクライエントの自然な気づきという、私たちが最も重視しなくてはならない成果を失ってしまう可能性もあるのです。
相手の状態を冷静に判断する。
そうした意味でも、積極技法を使う前提として、来談者中心療法は非常に重要だと思います。
(おぉ、初めて意味のあるブログを書いた気がする!!!)
そこでNLPやらTA講座を作っちゃおうと考えているのですが、なかなか時間がないねぇ~。
とか言っていると何も先へ進まないので、新しい企画。
私の仕事は限りなくカウンセリングに近くなることがあります。
そして、そうした仕事をかれこれ8年も続けています。
8年も効した仕事をしていて、かつカウンセリング心理学を勉強していると、様々な発見(と、それ以上の数え切れない失敗)があります。
そこで、そうしたカウンセリングの現場での発見や知識をお話ししていきたいと思います。
ただ、私は正式(?)なカウンセラーではありませんので(実際、肩書きは違うしね)、一般のカウンセラーとは全く違う事をしている場面も多々あります。
恐らく、カウンセラーとしてきちんと教育を受けた方からすれば、ツッコミどころ満載でしょう。
確かに、批判や反論は多々あると思います。
しかし、そうした批判や反論も含めて、これをご覧になっている方と「カウンセリングとは何ぞや?」を考えられたらなと思います。
という事で、第一回目は来談者中心療法と積極技法について
来談者中心療法の傾聴をトレーニングとして行っている場合、だいたい時間は10~15分程度の傾聴をやって、3分間の振り返りを行います。
その振り返りの際にクライエントの主訴と今後の見立てを行なうのですが、その際に「ラポールが築けたら積極技法を用いて…」という話をよく聞きます(実際、私もそう言う事も)。
ただ、実際のカウンセリングの現場では、傾聴技法と積極技法の間に、そう大きな壁があるわけではなく、むしろ傾聴と積極技法を行き来する事も多くあります。
ここで、一例として逐語録をご紹介します。
内容はクライエントのプライバシーに配慮して一部変更がしてあります。
クライエントは40代のシングルマザー。
離婚後、仕事をこなしながら子育てに励む生活をしている。
最近、ある男性と恋愛関係になったが、子供たちが彼に父親を求めることが多くなった。しかし、相手の男性は父親としての自覚が十分ではなく、その結果クライエントは彼との関係を終わりにした。
この記録はカウンセリング開始後10分程度のもの
CL:…子供たちの前でも、結構無神経な発言をするんです。「ママとは結婚しないよ」とか。それを言ったら、子供も傷つくじゃないですか。彼に父親を期待しているのに。なのに、彼は家族全員で彼の実家に遊びに行こうと言うんです。結婚する気もないのに!で、つい彼に厳しく言っちゃったんです。「自覚がないんだったら、もう来ないで」って。
CO:なるほど。彼はお子さんたちに対して無神経な発言をするのに、その一方で実家に誘ったりしたんですね。そして、お子さんたちは、それで傷ついてしまう。ゆえに「もう来ないで」と仰ったんですね(要約)。
「もう来ないで」と言った時の、ご自身のお気持ちは(ドアオープナー)
CL:う~ん、子供を守るためだから、しょうがないかなと。…ただ、もうダメですよね。彼との関係は、これで切れてしまいますよね?
CO:ご自身のお考えとしてはどうですか?(ドアオープナー)
CL:切れてしまうと思いますよ。
CO:切れてしまうと思われるんですね。確かに、そうした発言をしてしまうと、一般的には関係は損なわれるリスクが高まりますよね。
CL:あの時、私の中で「このままでよくない」という思いがあったんです。子供たちが彼のようになるのは避けたいし、子供が傷つくのは見たくないし。彼だって、「父親」になることから解放された訳ですから、きっとホッとしているはずです。
私は、ずっとみんなが納得できる方法はないかと考えていたんです。だんだんと彼と私との関係が接近してきて、子供たちは彼に父親を求め始める。中途半端な関係で子供が傷つくのであれば、切ってしまった方がいいと思いました。
(このあと、CLは5分ほど彼を切った理由について話し続けた)
CO:ご自身の彼との関係を終わりにした理由はよくわかりました。ご自身にとって、お子さんを守ることを優先するならば、彼との関係を切った方がいいと判断された訳なんですよね。
CL:えぇ。
CO:お話をお伺いしていると、彼との関係を終わりにしたことについて、ご自身なりに十分納得されているように思えます(この辺から積極技法。これは『自己開示』)。
CL:えぇ。しょうがないことですから。納得していますし、正しかったと思います。
CO:なるほど、納得もしているし、正しいとも思っている。
……お話をお伺いしていて、ふと感じたことがあります(以下、フィードバック)。
ご自身は、なぜ私に対して、終わったはずの出来事をこのようにお話しになるのでしょうか?
納得しているはずのご自身の行動のその動機を、私にお話しする事が疑問に感じます。
CL:………!
終わっていないんですね!
CO:えぇ、そのように聞こえます。
いま、振り返ってみて何か思う事や感じることはありますか?
CL:…私は、彼に望みをつないでいます。もう一度、関係をやり直したいと思っています。
結局、このカウンセリングはこのあと、80分近く行われました。
「自己開示」と「フィードバック」は積極技法の一つで、前者はクライエントにカウンセラーの感じ方や考えを伝えるもので、後者はカウンセラーや第三者がクライエントをどう見ているかという資料を提供するものです。
来談者中心療法の場合、カウンセラーはクライエントの心の鏡になる事によってクライエントの自己洞察の手助けをするものなのですが、それに対して積極技法は、直接クライエントに影響を与える事を目的としています。
私自身の場合、クライエントとのラポールも確かに重要ですが、実際に積極技法を使う場合、あまりラポールは考えません。
それよりもクライエントの状態の方により気を使います。分かりやすい言い方をすると、ある種の「タイミング」と言えばいいでしょうか。
先の例では、相手の男性と別れた事を「納得している」と言いつつ、クライエントはその理由を延々と私に話し続けました。そしてさらに、こうして関係が終わったことについて、彼も「ホッとしていると思う」という憶測を述べています。
この辺は、まるで自分に離別を選んだ事の正しさを言い聞かせえているように思えたのです。
そこで、別れた動機やそのときの感情を、とにかく話してもらいました。
そして、その時の感情や考えを、クライエント自身がよく吟味できるように促したのです。
その間、私は積極技法を使うタイミングをずっと見計らっています。
そして、クライエントの思いがピークに達したと判断された時、フィードバックを投げかけたのです。
結果はビンゴ。
クライエントは自分がまだ彼に望みを繋いでいることの気づきに突き当たりました。
この後、「先生、本当にありがとう!それを聞いてすっきりしました!」と何度も言われたのですが、それほどにクライエント(のみならず、問題の渦中にいる私たちにとって)自分の思考のループは根強いものがあります。
そうしたクライエントに対して、タイミングさえ誤らなければ積極技法は一気にクライエントのパラダイムを変えるきっかけを与えます。
裏を返せば、判断を誤るとクライエントの自然な気づきという、私たちが最も重視しなくてはならない成果を失ってしまう可能性もあるのです。
相手の状態を冷静に判断する。
そうした意味でも、積極技法を使う前提として、来談者中心療法は非常に重要だと思います。
(おぉ、初めて意味のあるブログを書いた気がする!!!)
心療内科にて [メンタルヘルス]
先日の事
部屋で作業をしてると、仕事に出たはずの妻から電話が。
出かける前に「あれ?何か言おうと思ったんだけど、何だっけ?」とか言っていたので、何か忘れ物かなと思い電話に出ると、「思い出した。『心療内科に行け!』と言いたかったんだ!」との事
そういえば、薬が切れてから久しく経つもんね~。
という事で、妻の鶴の一声によって、大人しく心療内科へ行く事に。
私はパニック障害を抱えているのですが、それに加えてもう一つ、新たな疑問が最近になって生まれてきたのです。
それは…
「もしかして、私って『境界性人格障害』かも」というもの。
あるきっかけがあり、ネットで境界性人格障害の症例を見ていると、どうも私に共通する要素があまりに多い。
そこで手元にあるDSM-Ⅳを取って調べてみると、確かに当てはまる…。
そこで妻に境界性人格障害の診断基準を見せてみると、「大体は当てはまるよねぇ~」と。
う~ん、メンヘルさんであることは別に嫌ではないのだけど、ボーダーさんは嫌だなぁ。
などと思っていると、妻が「今度病院に行ったら、先生に聞いてみたら?」と。
そこで今回、思い切って先生に疑問をぶつけてみました。
しかし、先生の反応は「う~ん、厳密な心理テストをやってみないと分からんしなぁ…。何か自傷とかの問題行動でもある?」
「自傷はありませんが、昔から怒りのコントロールが非常に困難な面があります。部屋のものはよく壊れますね」
「なるほどねぇ…。じゃあ、それを上手くコントロールする薬を処方しようか?」
う~ん、この何でも薬で解決しようとする先生って、とっても素敵!
という事で、二つ返事でお願いした結果、服用する薬がまた一つ増えました(笑)。
え~と、一応注意までに。
少し調べたら分かるかとは思いますが、DSMはあくまでも精神疾患の症例を整理しただけのものであり、あれをそのまま当てはめて自己流に診断すると言う事はしないで下さいね。
ネットで流布している診断基準に関してもしかりです。
判断はきちんと専門のお医者さんに聞いてくださいね。
その心療内科に絡んだ、こんなお話が。
私が参加している勉強会のメンバーが、心療内科の先生を呼んで講演をしてもらうという、大変クールな企画を立ち上げましてね。
それが明日なのですが、残念ながら明日は私は融資関連のために公的機関をハシゴしなくてはならないのです。
う~ん…残念!!!
ではでは。
部屋で作業をしてると、仕事に出たはずの妻から電話が。
出かける前に「あれ?何か言おうと思ったんだけど、何だっけ?」とか言っていたので、何か忘れ物かなと思い電話に出ると、「思い出した。『心療内科に行け!』と言いたかったんだ!」との事
そういえば、薬が切れてから久しく経つもんね~。
という事で、妻の鶴の一声によって、大人しく心療内科へ行く事に。
私はパニック障害を抱えているのですが、それに加えてもう一つ、新たな疑問が最近になって生まれてきたのです。
それは…
「もしかして、私って『境界性人格障害』かも」というもの。
あるきっかけがあり、ネットで境界性人格障害の症例を見ていると、どうも私に共通する要素があまりに多い。
そこで手元にあるDSM-Ⅳを取って調べてみると、確かに当てはまる…。
そこで妻に境界性人格障害の診断基準を見せてみると、「大体は当てはまるよねぇ~」と。
う~ん、メンヘルさんであることは別に嫌ではないのだけど、ボーダーさんは嫌だなぁ。
などと思っていると、妻が「今度病院に行ったら、先生に聞いてみたら?」と。
そこで今回、思い切って先生に疑問をぶつけてみました。
しかし、先生の反応は「う~ん、厳密な心理テストをやってみないと分からんしなぁ…。何か自傷とかの問題行動でもある?」
「自傷はありませんが、昔から怒りのコントロールが非常に困難な面があります。部屋のものはよく壊れますね」
「なるほどねぇ…。じゃあ、それを上手くコントロールする薬を処方しようか?」
う~ん、この何でも薬で解決しようとする先生って、とっても素敵!
という事で、二つ返事でお願いした結果、服用する薬がまた一つ増えました(笑)。
え~と、一応注意までに。
少し調べたら分かるかとは思いますが、DSMはあくまでも精神疾患の症例を整理しただけのものであり、あれをそのまま当てはめて自己流に診断すると言う事はしないで下さいね。
ネットで流布している診断基準に関してもしかりです。
判断はきちんと専門のお医者さんに聞いてくださいね。
その心療内科に絡んだ、こんなお話が。
私が参加している勉強会のメンバーが、心療内科の先生を呼んで講演をしてもらうという、大変クールな企画を立ち上げましてね。
それが明日なのですが、残念ながら明日は私は融資関連のために公的機関をハシゴしなくてはならないのです。
う~ん…残念!!!
ではでは。
妻へのお勧め [読書]
最近、私の方はなかなか読書の為の時間が取れていません。
通常であれば、大体週に4~5冊は読むのですが・・・
そんな状態なので、ちょっと欲求不満気味。
ただ、今後の読書の方向として科学と歴史に絞って読み進めたいなと考えています。
いままではちょっとビジネス関連に偏りすぎていたので・・・
さてさて、今日の本題は最近妻に薦めた本の話
昨日の事。
二人で「ナショナル・ジオグラフィック」の「タブー」という番組を見ていました。
その中で、日本の刺青について触れられたものがありました。
実は、妻とお揃いのタトゥーを入れようと二人で割りと真剣に話をしている事もあり、興味深く見ていたのですが、その中で元やくざの「鈴木啓之」という人物が出ていました。
「鈴木…どこかで見たことが…」と思いながら見ていたのですが、番組の最後で今の彼の職業が牧師である事が紹介されました。
「あぁ、ミッション・バラバの!!!」
「ミッション・バラバ」とは、元ヤクザの方々で構成されたキリスト教の伝道集団です。
だいぶ前に彼らを題材にして、映画も作られました。
クリスチャンで元神学生のくせに他のキリスト教会については疎いのですが、確か彼らの伝道集団の母体は韓国のペンテコステ系の教会ではなかったかと記憶しています
確か韓国で最も大きなキリスト教団体もペンテコステ系だった記憶が(違っていたら、ごめんなさい)。
私自身、過去にペンテコステ系の教会に強い関心をもった時期がありました。
ペンテコステ系の教会とは、聖霊の働きに重きを置く教義を持っており、病気の治癒や神秘体験を伴うと言う、通常のキリスト教会では少々想像しにくい(ある種のシャーマニズムを連想させる)特徴を持っています。
私のペンテコステ系への関心は、神学生時代にウェスレー神学に手を出した事と、私自身もある神秘体験を経験したことが原因(?)なのですが、今日のキリスト教が軽視しがちな聖霊体験を正面から考えると言う点で、非常に共感を覚えていました。
…話が長くなりました。
久しくミッション・バラバについて関心を持っていなかったので、非常に懐かしい思いにかられたのですが、妻も関心を持った様子で「確か映画化されていたよね?見てみたいなぁ~」と。
「あぁ、本を持ってるよ」
「ほんとに?」
という事で、取り出したのがこの本。
内容は、元々ヤクザであった著者がキリスト教に改心し、伝道活動を始めるまでを記したものですが、宗教的体験と言う意味でも、また普通の読み物としても、非常に興味深いものです。
…本当はもう一冊妻に勧めた別の本があるのですが、何だか長くなってしまったので、今日はこの辺で。
ではでは
通常であれば、大体週に4~5冊は読むのですが・・・
そんな状態なので、ちょっと欲求不満気味。
ただ、今後の読書の方向として科学と歴史に絞って読み進めたいなと考えています。
いままではちょっとビジネス関連に偏りすぎていたので・・・
さてさて、今日の本題は最近妻に薦めた本の話
昨日の事。
二人で「ナショナル・ジオグラフィック」の「タブー」という番組を見ていました。
その中で、日本の刺青について触れられたものがありました。
実は、妻とお揃いのタトゥーを入れようと二人で割りと真剣に話をしている事もあり、興味深く見ていたのですが、その中で元やくざの「鈴木啓之」という人物が出ていました。
「鈴木…どこかで見たことが…」と思いながら見ていたのですが、番組の最後で今の彼の職業が牧師である事が紹介されました。
「あぁ、ミッション・バラバの!!!」
「ミッション・バラバ」とは、元ヤクザの方々で構成されたキリスト教の伝道集団です。
だいぶ前に彼らを題材にして、映画も作られました。
クリスチャンで元神学生のくせに他のキリスト教会については疎いのですが、確か彼らの伝道集団の母体は韓国のペンテコステ系の教会ではなかったかと記憶しています
確か韓国で最も大きなキリスト教団体もペンテコステ系だった記憶が(違っていたら、ごめんなさい)。
私自身、過去にペンテコステ系の教会に強い関心をもった時期がありました。
ペンテコステ系の教会とは、聖霊の働きに重きを置く教義を持っており、病気の治癒や神秘体験を伴うと言う、通常のキリスト教会では少々想像しにくい(ある種のシャーマニズムを連想させる)特徴を持っています。
私のペンテコステ系への関心は、神学生時代にウェスレー神学に手を出した事と、私自身もある神秘体験を経験したことが原因(?)なのですが、今日のキリスト教が軽視しがちな聖霊体験を正面から考えると言う点で、非常に共感を覚えていました。
…話が長くなりました。
久しくミッション・バラバについて関心を持っていなかったので、非常に懐かしい思いにかられたのですが、妻も関心を持った様子で「確か映画化されていたよね?見てみたいなぁ~」と。
「あぁ、本を持ってるよ」
「ほんとに?」
という事で、取り出したのがこの本。
内容は、元々ヤクザであった著者がキリスト教に改心し、伝道活動を始めるまでを記したものですが、宗教的体験と言う意味でも、また普通の読み物としても、非常に興味深いものです。
…本当はもう一冊妻に勧めた別の本があるのですが、何だか長くなってしまったので、今日はこの辺で。
ではでは
用事があれこれ [徒然草]
NLPで二日ほど大阪でセミナーをやったかと思ったら、すぐに傾聴トレと商工会議所のセミナーがあり、そしてカウンセラーの2級試験があり、そして公的機関への融資の準備があり、何よりも大学の勉強が全然進んでいない・・・という毎日。
もう、これは実名を挙げちゃっても問題はないと思うので挙げちゃいますけど、「日本心理カウンセラー学院」という学校がありましてね。そこがやっているカウンセラー試験をやっていたわけです。
2週間ほど前かな、筆記試験をやって、つい先日実技がありましてね。
筆記試験は持ち時間が50分(だっけ?)のところを30分で終了。
そして実技の方も(私の中では)最もベストの傾聴ができました。
来談者中心療法に個々のカウンセラーのスタイルが入りうるのかどうかは不明ですが、なんとなく「あぁ、私らしい傾聴をしているな」という内容でした。
カウンセラー役の方から「自分の考えている事をピンポイントで指摘してもらい、それにものすごくやさしい雰囲気でした!」というフィードバックを頂けたのも嬉しかったですね。
という事で、カウンセラーに関する活動はいったん終了。
これからの心理学に関する私の課題は、カウンセリング心理学で学んだ内容を、大学での学習やNLP、そしてこれから手を出すであろうセラピーとの統合を図ることにあります。
そのNLPですが、先日3、4回目が終了しました。
正直に言うと、NLPに関してはちょっとモチベーションの維持が難しいなと感じる事が数多くあります。
私の持っている心理学の知識や、読破したNLP関連の文献のおかげで、相当程度予備知識がある状態になっているので、先生から話を聞いても、すぐに自分の持っている知識と参照して考えてしまうんですよね。
そうなると、他の受講生のような驚きや発見があまりないのです。
学習意欲だけは人一倍高い私としては、この状況は少々辛いものがありましてね。
また、それとは別の話になりますが、あの手のセミナーの持つ自己啓発くさい雰囲気も苦手です。
NLPの学校を決める参考として、以前ある学校の体験セミナーに妻と参加したことがあります。
妻と一緒に受けた理由は、それなりに高額のセミナーなので、一応理解を得ておいた方がいいであろうという判断だったのですが、NLPそのものは妻にも好評でした。
しかし、あの「自己啓発的」な雰囲気は妻も感じたようで、「NLPは勉強した方がいいけど、この学校は気に入らない!」と言っていました。
私もそれにはまったく同感だったので別の学校を選んだのですが、雰囲気は早々変わるものではありませんね(苦笑)。
ただ、NLPそのものは非常に「使える」ツールだと断言できます。
特にアウトカムとサブモダリティについては、早速仕事でも活用しています。
個人的には、もっと数多くのワークを積みたい所ではあるのですけどね。
やはり実践を積み重ねないと身につかないものばかりですから。
これは今後の課題としておきましょう。
話は少し変わりますが、皆さんはグーグルの「ドキュメント」をご存知でしょうか?
文字通りウェブ上でドキュメントを作成し保存するものなのですが、NLPで学習した内容を整理して保存しています。
しかし、よくよく考えたら、その整理した一部をここで公開してもいいんですよね。
以前から、今まで学習した心理学の知識を講座という形でここで公開したいと考えていました。
考えていたのは交流分析や学院や大学で学んだカウンセリング心理学の公開だったのですが、NLPも付け加えてもいいですよね。
という事で、なかなか忙しいという事もありますが、ちょっと実現したいと思います。
さて・・・今日はここまで
ネタはたくさんあるのですが、ちょうど仕事も終わったので、今からの時間はアルコールと葉巻で楽しく過ごすとします(笑)。
ではでは。
もう、これは実名を挙げちゃっても問題はないと思うので挙げちゃいますけど、「日本心理カウンセラー学院」という学校がありましてね。そこがやっているカウンセラー試験をやっていたわけです。
2週間ほど前かな、筆記試験をやって、つい先日実技がありましてね。
筆記試験は持ち時間が50分(だっけ?)のところを30分で終了。
そして実技の方も(私の中では)最もベストの傾聴ができました。
来談者中心療法に個々のカウンセラーのスタイルが入りうるのかどうかは不明ですが、なんとなく「あぁ、私らしい傾聴をしているな」という内容でした。
カウンセラー役の方から「自分の考えている事をピンポイントで指摘してもらい、それにものすごくやさしい雰囲気でした!」というフィードバックを頂けたのも嬉しかったですね。
という事で、カウンセラーに関する活動はいったん終了。
これからの心理学に関する私の課題は、カウンセリング心理学で学んだ内容を、大学での学習やNLP、そしてこれから手を出すであろうセラピーとの統合を図ることにあります。
そのNLPですが、先日3、4回目が終了しました。
正直に言うと、NLPに関してはちょっとモチベーションの維持が難しいなと感じる事が数多くあります。
私の持っている心理学の知識や、読破したNLP関連の文献のおかげで、相当程度予備知識がある状態になっているので、先生から話を聞いても、すぐに自分の持っている知識と参照して考えてしまうんですよね。
そうなると、他の受講生のような驚きや発見があまりないのです。
学習意欲だけは人一倍高い私としては、この状況は少々辛いものがありましてね。
また、それとは別の話になりますが、あの手のセミナーの持つ自己啓発くさい雰囲気も苦手です。
NLPの学校を決める参考として、以前ある学校の体験セミナーに妻と参加したことがあります。
妻と一緒に受けた理由は、それなりに高額のセミナーなので、一応理解を得ておいた方がいいであろうという判断だったのですが、NLPそのものは妻にも好評でした。
しかし、あの「自己啓発的」な雰囲気は妻も感じたようで、「NLPは勉強した方がいいけど、この学校は気に入らない!」と言っていました。
私もそれにはまったく同感だったので別の学校を選んだのですが、雰囲気は早々変わるものではありませんね(苦笑)。
ただ、NLPそのものは非常に「使える」ツールだと断言できます。
特にアウトカムとサブモダリティについては、早速仕事でも活用しています。
個人的には、もっと数多くのワークを積みたい所ではあるのですけどね。
やはり実践を積み重ねないと身につかないものばかりですから。
これは今後の課題としておきましょう。
話は少し変わりますが、皆さんはグーグルの「ドキュメント」をご存知でしょうか?
文字通りウェブ上でドキュメントを作成し保存するものなのですが、NLPで学習した内容を整理して保存しています。
しかし、よくよく考えたら、その整理した一部をここで公開してもいいんですよね。
以前から、今まで学習した心理学の知識を講座という形でここで公開したいと考えていました。
考えていたのは交流分析や学院や大学で学んだカウンセリング心理学の公開だったのですが、NLPも付け加えてもいいですよね。
という事で、なかなか忙しいという事もありますが、ちょっと実現したいと思います。
さて・・・今日はここまで
ネタはたくさんあるのですが、ちょうど仕事も終わったので、今からの時間はアルコールと葉巻で楽しく過ごすとします(笑)。
ではでは。
色々と絶望的な今日この頃 [徒然草]
え~と、どこから書いたらいいかな?
まずですね、今の私の置かれている状況を把握していただくために、私が抱えている「困ったこと」を列挙します
(ⅰ)本業で一日最低でも8時間は拘束される(そりゃそうだ)
(ⅱ)私は現役の大学生。政治学から心理学に専攻を鞍替えしたので、単位とかがいろいろと大変。11月にレポートの締め切りがあるのに、全然やっていない
(ⅲ)現在、NLPを受講中。これが月に2日
(ⅳ)本業に絡んで、本当はブログを書かなくてはならないのだけど、最近全然更新していない
(ⅴ)ドラムの練習がしたいのに、なかなか時間が取れない
(ⅵ)日本総合カウンセリングという学校の2級試験をがんばり中。ペーパーテストは楽勝でしたが(30分で終了)、さて実技の方は?これは11月に終了。傾聴トレーニングはほぼ毎週。
(ⅶ)商工会議所でセミナーを受講中。これが12月中旬まで毎週土曜日
(ⅷ)会社の立ち上げが決定。それに付随して経営コンサルタントの方と色々と動かなくてはならない(コンサル料、高けぇ!)
(ⅸ)その会社設立が高砂市になるのですが、その準備がとっても大変
・・・本当に大変。
特に法人設立でやることが一気に増えてしまいました。
おかげで、病院へ薬とを取りに行く必要があるのに、その暇もない。
まぁ、自己管理の甘さも一因ですが。
11月に予定が重なりすぎたのも一因なのですが、じゃあ12月はというと、早速求人を開始しなくてはならないし、後述する融資関連の活動も12月から開始。おっと、高砂の事業所の改修もあるのか!うわっ、大変!
特に求人に関しては、来年の3月には高砂で事業を開始するので、今から人を募集していないと集まらないのですよ。
融資についても同様。
という事で、12月にはハローワークに申し込みを。
う~ん、色々と間に合うのかなぁ…?
それと、いま非常に憂鬱なのは、先述した会社立ち上げにあたって融資を受けなければならないこと。
制度融資と日本政策金融公庫から引っ張るのですが、だいたい金額にして1千万近く。
うぅ…住宅ローンも抱えているのに、はたして貸してもらえるのだろうか?
これでも、金額的には結構タイト。
月々の返済金額を考えると、悲しくなってきます
一応、事前のシミュレーションでは数字上のつじつまは合うのですが、これはあくまでもシミュレーション。
ビジネスの内容を考えるとキャッシュフローは命なので。多少数字は厳しめに考えていますので、ふたを開けたら楽勝だった、という事を夢想しつつ、悲観的なシミュレーションを繰り返す訳です。
まぁ、とにかく。
やりすぎですよ、やりすぎ。
いまさら後悔しても始まらないけど、せめてNLPはもう少し後でも良かったか。これで休みが二日つぶれるのは、ちょっと痛い!
まぁ、NLPを申し込んだ段階では、今の方向での法人設立なんて全く考えてもいなかったので。
あぁ、それから思い出したので、ちょいと愚痴を
大学で応用心理学のクラスを取っているのですが、これも後悔の一つ。
単位を稼ぐ以上やらなくてはならないことだけど、全然面白くない。
それと発達心理学も実は嫌い。脳の発達過程は興味深いけど、それ以外はねぇ・・・。
子供がどう発達しようが興味がないっての。
なぜなら、私は子供が大嫌いだから。
おかげでタバコが復活しましたわ。
とはいえ、私の場合はシガーですが。
え~と、あとは・・・
私はグーグルの「ドキュメント」で日記を書いているのですが、同じウェブ上で書くのであれば、このブログの更新頻度を多くした方がいいんですよね。
ここで書けないことも多々あるのだけど、それはドキュメントで書いちゃえばよいのであって。
という事で、誰が見るわけでもありませんが、このブログの更新をがんばるのですよ。
さて、明日は例のNLPの日。
今回は3回目。
前回は表象システムやアウトカムの設定などをやりました。
またその詳細をブログで書きたいと思います。
それと日々の読書記録と心理学講座もね。
カウンセリング関連の事業展開も真剣に考えていますので。
もしかしたら、いつの日かこのブログでカウンセラーを募集するかも。しないかも。
ではでは!
まずですね、今の私の置かれている状況を把握していただくために、私が抱えている「困ったこと」を列挙します
(ⅰ)本業で一日最低でも8時間は拘束される(そりゃそうだ)
(ⅱ)私は現役の大学生。政治学から心理学に専攻を鞍替えしたので、単位とかがいろいろと大変。11月にレポートの締め切りがあるのに、全然やっていない
(ⅲ)現在、NLPを受講中。これが月に2日
(ⅳ)本業に絡んで、本当はブログを書かなくてはならないのだけど、最近全然更新していない
(ⅴ)ドラムの練習がしたいのに、なかなか時間が取れない
(ⅵ)日本総合カウンセリングという学校の2級試験をがんばり中。ペーパーテストは楽勝でしたが(30分で終了)、さて実技の方は?これは11月に終了。傾聴トレーニングはほぼ毎週。
(ⅶ)商工会議所でセミナーを受講中。これが12月中旬まで毎週土曜日
(ⅷ)会社の立ち上げが決定。それに付随して経営コンサルタントの方と色々と動かなくてはならない(コンサル料、高けぇ!)
(ⅸ)その会社設立が高砂市になるのですが、その準備がとっても大変
・・・本当に大変。
特に法人設立でやることが一気に増えてしまいました。
おかげで、病院へ薬とを取りに行く必要があるのに、その暇もない。
まぁ、自己管理の甘さも一因ですが。
11月に予定が重なりすぎたのも一因なのですが、じゃあ12月はというと、早速求人を開始しなくてはならないし、後述する融資関連の活動も12月から開始。おっと、高砂の事業所の改修もあるのか!うわっ、大変!
特に求人に関しては、来年の3月には高砂で事業を開始するので、今から人を募集していないと集まらないのですよ。
融資についても同様。
という事で、12月にはハローワークに申し込みを。
う~ん、色々と間に合うのかなぁ…?
それと、いま非常に憂鬱なのは、先述した会社立ち上げにあたって融資を受けなければならないこと。
制度融資と日本政策金融公庫から引っ張るのですが、だいたい金額にして1千万近く。
うぅ…住宅ローンも抱えているのに、はたして貸してもらえるのだろうか?
これでも、金額的には結構タイト。
月々の返済金額を考えると、悲しくなってきます
一応、事前のシミュレーションでは数字上のつじつまは合うのですが、これはあくまでもシミュレーション。
ビジネスの内容を考えるとキャッシュフローは命なので。多少数字は厳しめに考えていますので、ふたを開けたら楽勝だった、という事を夢想しつつ、悲観的なシミュレーションを繰り返す訳です。
まぁ、とにかく。
やりすぎですよ、やりすぎ。
いまさら後悔しても始まらないけど、せめてNLPはもう少し後でも良かったか。これで休みが二日つぶれるのは、ちょっと痛い!
まぁ、NLPを申し込んだ段階では、今の方向での法人設立なんて全く考えてもいなかったので。
あぁ、それから思い出したので、ちょいと愚痴を
大学で応用心理学のクラスを取っているのですが、これも後悔の一つ。
単位を稼ぐ以上やらなくてはならないことだけど、全然面白くない。
それと発達心理学も実は嫌い。脳の発達過程は興味深いけど、それ以外はねぇ・・・。
子供がどう発達しようが興味がないっての。
なぜなら、私は子供が大嫌いだから。
おかげでタバコが復活しましたわ。
とはいえ、私の場合はシガーですが。
え~と、あとは・・・
私はグーグルの「ドキュメント」で日記を書いているのですが、同じウェブ上で書くのであれば、このブログの更新頻度を多くした方がいいんですよね。
ここで書けないことも多々あるのだけど、それはドキュメントで書いちゃえばよいのであって。
という事で、誰が見るわけでもありませんが、このブログの更新をがんばるのですよ。
さて、明日は例のNLPの日。
今回は3回目。
前回は表象システムやアウトカムの設定などをやりました。
またその詳細をブログで書きたいと思います。
それと日々の読書記録と心理学講座もね。
カウンセリング関連の事業展開も真剣に考えていますので。
もしかしたら、いつの日かこのブログでカウンセラーを募集するかも。しないかも。
ではでは!
心療内科、再び
前回の更新で鬱になり心療内科を受診した事をお伝えしましたが、今日、再度別の病院へ行ってきました。
直接の理由は薬との相性が変わってしまったので、その調整が必要になった事。
神経疾患の薬って相性があるのと、その相性がときに変わってしまうんですよね。
私がもらった薬も、最初は本当に良かったのですが、やがて副作用ばかりが目立つようになってしまって…。
ただ、これは予想されていた事なので。
本当は以前と同じ病院にいけば解決する話なのですが、前の病院の問診が素人目に見てもどうかと思う内容だったので、妻に連れられて別の病院へ。
待つ事1時間半で順番が来て、先生と対面。
そこで色々と問診をされたのですが、その内容は非常に的確で、まずは一安心。
その後、対処法やら薬の説明やらの話になったのですが、その中で次のような会話がありました。
「そのような症状が出る原因は色々とあると思うんです。
以前なら、精神分析といってフロイトのように原因を探ってアプローチをするという事をやっていたのですが、今はしません。そんなことをやっていると、キリがないから。
だから、症状が出たら、原因はともかく、そのスイッチを切ってしまう。そうしたお薬を出しますので」
いやぁ~~~、小気味良い!!!
私がカウンセリング心理学を学んでいる事を伏せていたから出た発言なのでしょうが、実に精神科医らしくて、実によろしい。
実際のところ、日ごろから大学や学校で心理学を勉強したり、あるいは仕事で認知行動療法を使ったりする中で感じるのは、目の前の現象を扱う上で、いくら人の心の奥に手を伸ばしても、それが無意味な場面も多々あるということです。
例えばね、人間関係で上手く行かない人が居るとしますよね。
で、その人は機能不全家族に育てられたアダルト・チルドレンだったとしましょう(ちなみに、私は『アダルトチルドレン』の概念は大嫌い)。
で、その結果社会に出ても上手く行きません、と。
この場合、来談者中心療法ならどうします?
傾聴ですよね?
そして、お決まりの台詞が出てくる
「答えはクライエントが持っている」
…そんなバカな(笑)。
こういった状況下で機能不全家族の中で育った事をいくら傾聴しても、クライエントは変われないし、仮に変われても目の前の問題は変わりません。
原因なんて、どうでもいい事なんて沢山あるんです。
原因はどうでもいいから、どうやれば結果が変わるのか。
それが問われる場面も山のようにある。
正直に言うと、精神分析を好む方々を見ると思わず首を傾げたくなるのはこの辺にあります。
潜在意識を掘り返すことに、一体どれほどの意味があるのだろう?
そんなキリのない作業を延々と繰り返しても意味がなかろうに。
いくらトラウマを弄繰り回しても、ホントの自分なんて出てこないよ。
しかし、当然の事ながら異論もあるわけです。
少し前のこと。
妻とリビングで上のような議論を吹っかけた事があります。
ひとしきり上記の論調で「精神分析に意味なんてあるのか?トラウマなんてアホくさい議論はばっさりと切っちゃって、行動のみに焦点を当てればシンプルでよいのではないか?」とかいう感じの事を言ったのですが、妻の立場は「いやいや、とはいえ精神分析にも意味はあるよ」と。
妻の回答を要約すると、こんな感じになります。
薬で対応できるものは対応した方がいいのはよく分かるし、精神疾患の人が持つ服薬に対するアレルギー反応はおかしいと思う。
でも、やっぱり聞いてもらえてすっきりする面も否定できないし、何よりも前向きになれる要素を心の中に持っていないと、何をやっても前へ進めないし、変われないんだよ。
……なるほどね。来談者中心療法の方々がよく言う「答えはクライエントが…」という意味ではなく、自己肯定や自尊心などの「種」を作る必要があると言う事なんだよね。
妻曰く、私が薬を飲んで変われたのは、それは元々持っている要素が薬によって浮かび上がったからだと。ゆえに、心の中にそうした要素を持っていないと、結局は何を飲んでも変われないのではないか?と。
なかなか着目点としては面白い。
ならば、やはり私の関心はロジャースの範疇から大きく出てしまう訳か。
もっと動的になるだろうなぁ。
まぁ、それはともかく。
話を病院へ移しましょう。
今回の私の診断はパニック障害でした。
前回の診断が鬱病だったのに、と思うのですが、まぁそんなもの。
しかし、診断としては妥当だと思います。
仮に鬱であっても内因性のはずなのでは、という疑問から考えると、脳機能障害の側面の強い(と言われている)パニック障害という診断は納得がいきます。
さて、無事に診断も下り、後の私の関心は相性の良い薬がもらえるか否か。
実際、連続して発生するパニック発作と、薬との相性の悪さゆえに、ここ最近の私は完全に活動が停止してしまっているのですから。
別に私は自分の潜在意識に興味はないし、パニック障害になった原因にも興味はない。
相性の良い薬さえあれば良いのです!!
さて、結果は如何に?
直接の理由は薬との相性が変わってしまったので、その調整が必要になった事。
神経疾患の薬って相性があるのと、その相性がときに変わってしまうんですよね。
私がもらった薬も、最初は本当に良かったのですが、やがて副作用ばかりが目立つようになってしまって…。
ただ、これは予想されていた事なので。
本当は以前と同じ病院にいけば解決する話なのですが、前の病院の問診が素人目に見てもどうかと思う内容だったので、妻に連れられて別の病院へ。
待つ事1時間半で順番が来て、先生と対面。
そこで色々と問診をされたのですが、その内容は非常に的確で、まずは一安心。
その後、対処法やら薬の説明やらの話になったのですが、その中で次のような会話がありました。
「そのような症状が出る原因は色々とあると思うんです。
以前なら、精神分析といってフロイトのように原因を探ってアプローチをするという事をやっていたのですが、今はしません。そんなことをやっていると、キリがないから。
だから、症状が出たら、原因はともかく、そのスイッチを切ってしまう。そうしたお薬を出しますので」
いやぁ~~~、小気味良い!!!
私がカウンセリング心理学を学んでいる事を伏せていたから出た発言なのでしょうが、実に精神科医らしくて、実によろしい。
実際のところ、日ごろから大学や学校で心理学を勉強したり、あるいは仕事で認知行動療法を使ったりする中で感じるのは、目の前の現象を扱う上で、いくら人の心の奥に手を伸ばしても、それが無意味な場面も多々あるということです。
例えばね、人間関係で上手く行かない人が居るとしますよね。
で、その人は機能不全家族に育てられたアダルト・チルドレンだったとしましょう(ちなみに、私は『アダルトチルドレン』の概念は大嫌い)。
で、その結果社会に出ても上手く行きません、と。
この場合、来談者中心療法ならどうします?
傾聴ですよね?
そして、お決まりの台詞が出てくる
「答えはクライエントが持っている」
…そんなバカな(笑)。
こういった状況下で機能不全家族の中で育った事をいくら傾聴しても、クライエントは変われないし、仮に変われても目の前の問題は変わりません。
原因なんて、どうでもいい事なんて沢山あるんです。
原因はどうでもいいから、どうやれば結果が変わるのか。
それが問われる場面も山のようにある。
正直に言うと、精神分析を好む方々を見ると思わず首を傾げたくなるのはこの辺にあります。
潜在意識を掘り返すことに、一体どれほどの意味があるのだろう?
そんなキリのない作業を延々と繰り返しても意味がなかろうに。
いくらトラウマを弄繰り回しても、ホントの自分なんて出てこないよ。
しかし、当然の事ながら異論もあるわけです。
少し前のこと。
妻とリビングで上のような議論を吹っかけた事があります。
ひとしきり上記の論調で「精神分析に意味なんてあるのか?トラウマなんてアホくさい議論はばっさりと切っちゃって、行動のみに焦点を当てればシンプルでよいのではないか?」とかいう感じの事を言ったのですが、妻の立場は「いやいや、とはいえ精神分析にも意味はあるよ」と。
妻の回答を要約すると、こんな感じになります。
薬で対応できるものは対応した方がいいのはよく分かるし、精神疾患の人が持つ服薬に対するアレルギー反応はおかしいと思う。
でも、やっぱり聞いてもらえてすっきりする面も否定できないし、何よりも前向きになれる要素を心の中に持っていないと、何をやっても前へ進めないし、変われないんだよ。
……なるほどね。来談者中心療法の方々がよく言う「答えはクライエントが…」という意味ではなく、自己肯定や自尊心などの「種」を作る必要があると言う事なんだよね。
妻曰く、私が薬を飲んで変われたのは、それは元々持っている要素が薬によって浮かび上がったからだと。ゆえに、心の中にそうした要素を持っていないと、結局は何を飲んでも変われないのではないか?と。
なかなか着目点としては面白い。
ならば、やはり私の関心はロジャースの範疇から大きく出てしまう訳か。
もっと動的になるだろうなぁ。
まぁ、それはともかく。
話を病院へ移しましょう。
今回の私の診断はパニック障害でした。
前回の診断が鬱病だったのに、と思うのですが、まぁそんなもの。
しかし、診断としては妥当だと思います。
仮に鬱であっても内因性のはずなのでは、という疑問から考えると、脳機能障害の側面の強い(と言われている)パニック障害という診断は納得がいきます。
さて、無事に診断も下り、後の私の関心は相性の良い薬がもらえるか否か。
実際、連続して発生するパニック発作と、薬との相性の悪さゆえに、ここ最近の私は完全に活動が停止してしまっているのですから。
別に私は自分の潜在意識に興味はないし、パニック障害になった原因にも興味はない。
相性の良い薬さえあれば良いのです!!
さて、結果は如何に?
2008-09-23
さきほど本業のブログを久しぶりに更新したので、今度はこちらを(笑)
先日も書きましたが、現在私は鬱を患っています。
自分自身の状況を冷静に観察すると、恐らくは心因性ではなく内因性ではないかと考えられるのですが、しかし鬱は鬱。
死にたい願望もわんさと出てくるし、音に対する過敏な反応も悪化の一途。いつも不安と戦わなければならないし、胸の苦しさも相変わらず。
薬でどうにかコントロールできているとはいえ、なかなか大変な状況だったりもします。
特にいま一番頭がいたいのは、薬との相性。
私の場合、薬で何とかなるものなら、薬で何とかしてしまえという発想の持ち主なので、薬を飲むことにためらいも躊躇もないのですが、当初は相性がよいと判断された薬が、最近はどうも雲行きが怪しくなってきています。
で、どんな状況かというと、とにかく飲むと眠くなる!
薬を飲むと症状が安定するので、それはそれで助かるのですが、眠くなるのは本当に大変。
特に私の場合、人と話をする仕事なので、睡魔によって集中力が途切れるのが痛くて仕方がない。
ちなみに、ずっと以前に最初に心療内科にお世話になった時は、パニック症候に陥った時でした。
その時は、処方される薬も今とは違って非常にリベラルでね。
ちょっとここでは言うのは憚られる、社会問題化したお薬をバンバン処方してもらっていたのですよ。
あれは効いたよなぁ~~。
その当時が懐かしい…!
まぁ、そんな不謹慎なエピソードはともかく。
このままでは困るので薬を変えてもらおうかと考えているのですが、これも大変でねぇ。
時間が合わんのですよ。
ついでに言うと、そこの病院の先生の問診が素人目から見てもあまりに的外れでしてね。
病院を変えたいのですが、心療内科の場合、初診の時間が限られている場合が多いんですよね。
いま行きたい病院は、朝の9時から9時半までに予約をしなくてはならないという。
うつ病の私に、そんな健康的な時間に病院に行けってか!
まったく…!
先日も書きましたが、現在私は鬱を患っています。
自分自身の状況を冷静に観察すると、恐らくは心因性ではなく内因性ではないかと考えられるのですが、しかし鬱は鬱。
死にたい願望もわんさと出てくるし、音に対する過敏な反応も悪化の一途。いつも不安と戦わなければならないし、胸の苦しさも相変わらず。
薬でどうにかコントロールできているとはいえ、なかなか大変な状況だったりもします。
特にいま一番頭がいたいのは、薬との相性。
私の場合、薬で何とかなるものなら、薬で何とかしてしまえという発想の持ち主なので、薬を飲むことにためらいも躊躇もないのですが、当初は相性がよいと判断された薬が、最近はどうも雲行きが怪しくなってきています。
で、どんな状況かというと、とにかく飲むと眠くなる!
薬を飲むと症状が安定するので、それはそれで助かるのですが、眠くなるのは本当に大変。
特に私の場合、人と話をする仕事なので、睡魔によって集中力が途切れるのが痛くて仕方がない。
ちなみに、ずっと以前に最初に心療内科にお世話になった時は、パニック症候に陥った時でした。
その時は、処方される薬も今とは違って非常にリベラルでね。
ちょっとここでは言うのは憚られる、社会問題化したお薬をバンバン処方してもらっていたのですよ。
あれは効いたよなぁ~~。
その当時が懐かしい…!
まぁ、そんな不謹慎なエピソードはともかく。
このままでは困るので薬を変えてもらおうかと考えているのですが、これも大変でねぇ。
時間が合わんのですよ。
ついでに言うと、そこの病院の先生の問診が素人目から見てもあまりに的外れでしてね。
病院を変えたいのですが、心療内科の場合、初診の時間が限られている場合が多いんですよね。
いま行きたい病院は、朝の9時から9時半までに予約をしなくてはならないという。
うつ病の私に、そんな健康的な時間に病院に行けってか!
まったく…!
私が鬱になりまして(笑)
1週間ほど前からでしょうか
少し私の精神状態に異変が生じました。
まず数年前からの不眠が酷くなってきた事。
夜中に動悸がして飛び起きる事があったこと
感情の抑圧に胸の苦しさ。
意味もなく落ち込む事や注意力が散漫になる事
ただ、怒り以外の自分の感情に非常に鈍感(と言うよりも、感情の分離が激しい)なので、あまり気にもしていませんでした
ただ、傍で見ている妻からすれば、どうも最近おかしいと。
そしてある日。
ふとお喋りのついでに私のここ最近の状態を話したら、妻から一言
「それって鬱病じゃないの?」
…なるほど!
確かにこりゃ鬱病の症状だわ
なるほどねぇ~、ようやく合点がいった!
と言う事で病院にいったら、案の定「鬱ですねぇ~」と
幸い、処方された薬との相性が良いので、薬が効いている最中は良好なのですが(その代わり、薬が切れると少々危なくなる…というよりも、この書き方そのものが危ない雰囲気をかもし出していますな)。
あるカウンセラーの先生と話をしていた時、内因性と心因性の区別がねぇ…という話になりました。
私もその辺はものすごく興味があることだったのですが、その行った先の病院の先生が、どうもいまひとつで(苦笑)。
どう考えても問診のやり方が的外れと言う。
そんな訳で教育分析をお願いしている某先生と
「心療内科の先生って、当たりはずれがありますよねぇ~」
「いやぁ~、私は外れっぱなしですよぉ~」
という話で盛り上がりましたよと。
とにかく幸いなのは、処方された薬との相性が良かった事
ただし、この薬との相性は突然変化する事もあるので、あまり信用は出来ませんが。
いまのような状態が維持されたら、私の「うつ病ライフ」もそれなりに平穏なものになるのですが…。
まぁ以前からパニック発作は持っていたのでね。
あまり慌ててはいませんが、しかし不便ですねぇ~。
しかし、カウンセラーとして自分のうつ状態を観察できると言う奇特な経験をつめるのは、なかなか面白いもので。
と言う事で、次回は心因性ではなく生じる感情とその意味合いについての諸考察などを(笑)。
少し私の精神状態に異変が生じました。
まず数年前からの不眠が酷くなってきた事。
夜中に動悸がして飛び起きる事があったこと
感情の抑圧に胸の苦しさ。
意味もなく落ち込む事や注意力が散漫になる事
ただ、怒り以外の自分の感情に非常に鈍感(と言うよりも、感情の分離が激しい)なので、あまり気にもしていませんでした
ただ、傍で見ている妻からすれば、どうも最近おかしいと。
そしてある日。
ふとお喋りのついでに私のここ最近の状態を話したら、妻から一言
「それって鬱病じゃないの?」
…なるほど!
確かにこりゃ鬱病の症状だわ
なるほどねぇ~、ようやく合点がいった!
と言う事で病院にいったら、案の定「鬱ですねぇ~」と
幸い、処方された薬との相性が良いので、薬が効いている最中は良好なのですが(その代わり、薬が切れると少々危なくなる…というよりも、この書き方そのものが危ない雰囲気をかもし出していますな)。
あるカウンセラーの先生と話をしていた時、内因性と心因性の区別がねぇ…という話になりました。
私もその辺はものすごく興味があることだったのですが、その行った先の病院の先生が、どうもいまひとつで(苦笑)。
どう考えても問診のやり方が的外れと言う。
そんな訳で教育分析をお願いしている某先生と
「心療内科の先生って、当たりはずれがありますよねぇ~」
「いやぁ~、私は外れっぱなしですよぉ~」
という話で盛り上がりましたよと。
とにかく幸いなのは、処方された薬との相性が良かった事
ただし、この薬との相性は突然変化する事もあるので、あまり信用は出来ませんが。
いまのような状態が維持されたら、私の「うつ病ライフ」もそれなりに平穏なものになるのですが…。
まぁ以前からパニック発作は持っていたのでね。
あまり慌ててはいませんが、しかし不便ですねぇ~。
しかし、カウンセラーとして自分のうつ状態を観察できると言う奇特な経験をつめるのは、なかなか面白いもので。
と言う事で、次回は心因性ではなく生じる感情とその意味合いについての諸考察などを(笑)。
日々のあれこれ
仕事柄、通常の人と同じ時期に夏休みが取れません。
そのため、17日から夏休みが始まり、昨日終わりました。
今日から通常通りの仕事の日々
いつも長期休暇が終わると、「もしかしたら、クライエントが一人も来てくれないのでは?私のことなんて忘れてしまっているのでは?」という不安に駆られる事が往々にしてあるのですが、通常通りクライエントで予約はいっぱい。
本当にありがたいことです。
仕事に関しても勉強に関しても様々な葛藤を抱えつつの日々なのですが、しかしこうして学びの場を提供され、人よりも多い報酬を手にする事ができ、そして(子供こそいないものの)家族に恵まれているのは、本当にありがたいことなのだと、つくづく思います。
ついさっきまで、大学のスケジュールをにらみながら、幾つかのセミナーの予約をしていたところ。
以前にもお話したようにトランスパーソナル心理学は嫌いなのですが、しかし、やっぱりフォローした方がいいよね、と言う事で、12月にあるそれがらみのセミナーに申し込みをしつつ、来年の5月にある認知行動療法のセミナーにも予約をしつつ…という状態。
以前からカウンセリング関連の会社立ち上げという構想を練っているのですが、ちょっと新しいアイデアが生まれたので、それも含めて実行に移す事に。
まずは私一人から初めて…という形になりますが、あるフォーラムへの参加で状況を少しでも前進させられるのでは?と期待をしているところです。
あぁ、そうだ。
10月からはNLPも始まるんだったっけ。
勉強もしなきゃね~~
お金も稼がなきゃね~~
実践も積まなきゃね~~
で、話は変わって。
私も妻もずいぶんと前に禁煙をしたのですが、しかしたまには吸いたくなるのが本性というもの。
特にアルコールが入るとね。
でも、普通のタバコを吸う様な事は避けたいし、しかしたまに吸うのであれば、良いものを楽しみたい
と言う事で行き着いた先がシガー。
まぁ、このシガーは安いんだけどね。
私は違うのにしたかったのだけど、妻の強い要請で、このシガーに。
いいですよ、シガーは。
美味しいし、依存になりにくいし。
とはいえ、フロイトの例もあるので気をつけないと。
ではでは
そのため、17日から夏休みが始まり、昨日終わりました。
今日から通常通りの仕事の日々
いつも長期休暇が終わると、「もしかしたら、クライエントが一人も来てくれないのでは?私のことなんて忘れてしまっているのでは?」という不安に駆られる事が往々にしてあるのですが、通常通りクライエントで予約はいっぱい。
本当にありがたいことです。
仕事に関しても勉強に関しても様々な葛藤を抱えつつの日々なのですが、しかしこうして学びの場を提供され、人よりも多い報酬を手にする事ができ、そして(子供こそいないものの)家族に恵まれているのは、本当にありがたいことなのだと、つくづく思います。
ついさっきまで、大学のスケジュールをにらみながら、幾つかのセミナーの予約をしていたところ。
以前にもお話したようにトランスパーソナル心理学は嫌いなのですが、しかし、やっぱりフォローした方がいいよね、と言う事で、12月にあるそれがらみのセミナーに申し込みをしつつ、来年の5月にある認知行動療法のセミナーにも予約をしつつ…という状態。
以前からカウンセリング関連の会社立ち上げという構想を練っているのですが、ちょっと新しいアイデアが生まれたので、それも含めて実行に移す事に。
まずは私一人から初めて…という形になりますが、あるフォーラムへの参加で状況を少しでも前進させられるのでは?と期待をしているところです。
あぁ、そうだ。
10月からはNLPも始まるんだったっけ。
勉強もしなきゃね~~
お金も稼がなきゃね~~
実践も積まなきゃね~~
で、話は変わって。
私も妻もずいぶんと前に禁煙をしたのですが、しかしたまには吸いたくなるのが本性というもの。
特にアルコールが入るとね。
でも、普通のタバコを吸う様な事は避けたいし、しかしたまに吸うのであれば、良いものを楽しみたい
と言う事で行き着いた先がシガー。
まぁ、このシガーは安いんだけどね。
私は違うのにしたかったのだけど、妻の強い要請で、このシガーに。
いいですよ、シガーは。
美味しいし、依存になりにくいし。
とはいえ、フロイトの例もあるので気をつけないと。
ではでは