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不幸であり続ける意味 [カウンセリング]

前回の更新でもお伝えしたように、私の仕事に付随するカウンセリング的な業務から、カウンセラーとしての気づきや意見を書いていきたいと考えています。

その前提として、このカテゴリーを読む読者はカウンセラーあるいはカウンセリング心理学を多少なりとも勉強していると捉えています。

そこでお願いがあるのですが、ここで書かれている内容を、正解だとか正しい方法だとか考えないでくださいね。

私の意図は、こうした内容を叩き台として、皆さんそれぞれのカウンセラーとしての気づきや成長に結びつけてもらうことですから。

「まだ2級試験の合否も分からないのに、えらそうな!」という意見もおありかと思いますが、まぁ、あくまでも私見ですし、それに業務に付随したカウンセリングの経験は8年ほどあるという事で、どうか大目に見てくださいませ(笑)。



少し前の話。

「仕事がうまくいかない」という問題で私のところに、あるクライエントが来ました。

年齢は40代。女性で美術関連の仕事をずっと続けていたのですが、どうしても、ある目標が達成できないという事でした。

そこで、私たちは発生しうるリスクや達成するべきタスクを整理し、ひとまず大まかな方針の決定を行いました。

ただ、「どうすればいいか」は明確な指針が生まれたのですが、そのクライエントが指針通りの行動をこなせるように思えませんでした。

理由は、明らかにリソースの不足。
目標達成のための基盤となる思考力や精神的な安定、柔軟性が完全に失われている状態でした。

そこで、私がそのことを指摘すると、クライエントはある告白をしました。

「実は、うつ病なんです。そして、統合失調症の可能性もあります」

「・・・なるほど。それは正式な診断として、なんですか?」

「はい。お医者さんから言われました」

「では、現在その治療は?」

「全くしていません」

「・・・全くしていないんですね。何かご事情でも?」

「・・・・・・」

何か深い事情がある様子でした。


私の仕事の目的はカウンセリングではありませんし、クライエントが私に自身の抱えている問題の解決を求めないのであれば、強いて私の方から求める理由もありません。
そこで、その回はひとまず終了。タスクを確認して簡単な励ましとともに、クライエントを送り出しました。

しかしその後、予想通りクライエントは全く達成されていないタスクを手に、私のもとを訪れたのです。
その際、以下のような趣旨の会話が交わされました。

「実は、この結果はある程度予想していました」

「そうなんですか?」

「えぇ。前回、私がお話しした内容を覚えていますか?ご自身の健康問題について」

「えぇ」

「それが障害を形成しているというお話もしましたよね?」

「はい」

「それが足かせとなって、ご自身の行動を束縛していると思いませんか?」

「思います」

「その自覚はあるのに、でも病院で治療をしようとはなさっていない。・・・お話しいただけませんか?」

「治ったら・・・私じゃなくなるんです」


う~ん、なるほど。そう来たか!



「私が変わったら、何かを失ってしまう」

先のクライエントのケースは確かに極端な例ですが、しかし、似たような事柄は日々私たちも経験しています。
交友関係や仕事なので、「どうして私がそこまでしなくてはならないの?」と日常で思う場面が、まさにそれに当てはまります。

しかし、これが大きくなってさらに信念体系にまで根ざしていしまうと、解きほぐすのは非常に困難となります。

わかりやすい例をあげると、共依存関係などが典型例でしょう。
仮にここにヒモの男性と、それを養う女性がいるとします。
女性側は、自分が援助することによって、仕事をしようとしない相手の問題を拡大させてしまう事は頭では分かっている。そして、そうした関係の中にある自分自身は不幸だという自覚はある。

しかし、その自分を不幸から抜け出そうとするのであれば、相手を失ってしまう。

この場合、「不幸な自分」と「相手」の存在はトレードオフの関係になります。
そうなると「失いたくない」という恐怖が根本的な問題から足を遠のかせてしまうのです。


私は医者ではありませんので、統合失調症もうつ病も治せません。

ただ、クライエントが私にゆだねてきた課題を達成するためには、どうしても専門医師による治療をしてもらう必要があります。

しかし、こうした場合に説得が功を奏する訳がない。
なぜなら、そのクライエントは「変わらない」ことで、大切な何かを守っているから。

共依存やアダルトチルドレンの解決には、本人の自覚がどうしても必要になります。
これは、その自覚がないと自分を変えるというモチベーションが働かず、その結果解決のための技法が全く用いられないからです。

このクライエントは発達段階では1段階と判断できます。
この場合、ある程度積極技法を用いて・・・という話になります。
ただ、無理に積極技法を用いても、こうしたケースではクライエントの思考が上手に働かないので、あまり効果的ではありません。
積極技法は、相手にある程度のリソースがあってこそ意味がある技法なのです。

そこで、まずこのままでは問題があるのではないかという気付きを促すために、辛抱強く傾聴を行っていきました。
聞く内容は、生活全般の事柄を中心に、そこにある感情や感覚、特に不都合な面や感情的にネガティブになりやすい面となります。

そこを中心に傾聴をすることで、クライエントは自分の置かれている状態を客観化できるようになっていきました。そして、その状態になった頃を見計らって、論理的帰結や対決技法を用いる、という方法をとりました。

その結果、そのクライエントは無事に治療を再開してくれたのですが、この事例で印象に残ったのは、先述したようにある利得あるいは損失によって、「ある状態にい続ける」動機が生まれるという事と、自己を客観化できないがゆえに、どう考えても不幸な習慣を、何の疑問もなく続けてしまうという怖さです。

どれほど才能やチャンスに恵まれていても、人間的あるいは習慣的な問題によって、それが活かされないばかりか逆の方向に行ってしまうというケースは多々あります。
その時、私たちの脳裏の片隅には「〇〇するべきでは?」という疑問が立ち上ることがあります。しかし、その疑問の声は私たちの「こうありたい!」というある種の頑迷さによってかき消されます。

私は、真の柔軟性とは何かを、そしてそれを阻むものは何かを考えます。

柔軟性を選ばなければならないとき、私たちは失う事と、自分の尊厳が損なわれることを恐れます。
その時、私たちは自分に対して「大丈夫。何も失わないよ」「変えたからと言って、君が間違っていたことを意味しないんだよ」と言えるでしょうか?

私には、それが非常に難しく思えます。ゆえに私たちはそばにいてくれる誰か――恋人や家族、またはカウンセラー――を、心から必要とするのではないかと思うのです。

カウンセラーの受容とは、クライエントの変容の際に必ず生じる恐怖や惨めさに対して、安全な場所を提供し、その中でクライエントが変わるという経験の最もミニマムな「予行演習」を安心して行えるよう、手助けをすることではないかと考えます。

そこでは傷つくこともなく、自分の尊厳を失い事もなく、当然何かを失う事もなく、思う存分検討を繰り返すことができる。その繰り返しによってクライエントは変容し、柔軟性を回復し、そして再び「外」へ出ていくのではないかと思うのです。

不幸であり続けることにも意味があります。
それは、確かに私たちを苦しめはするのでしょうが、しかしそうでもしないと守れない「何か」が必ずあるのです。
そして、それを守るために私たちは不幸を抱えたまま孤独になっていきます。


その何かを失うことなく、不幸を手放す最良の方法は、孤独からの解放であり、関係性での癒しなのでしょう。


ではでは、今日はこの辺で。
タグ:心理学
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