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要するにね [オシゴト]

私が18歳ごろの話。

それまで好き勝手にバンドを組んでは首を縦に振り続けていたのですが、音楽的に幅広くなりたいと思った私は、当時知り合ったジャズギタリストについて音楽理論を勉強する事にしました。

その師匠から最初に言われた事は「フレットの音を全て覚えろ!」と言う事。
つまり、「3弦4フレットはC♯で」とか「1弦10フレットはFで…」と、すぐにいえなくてはならないと言うものでした。

それを言われた時に初めてフレットと音の関係を意識するようになったのですが、最初の頃はフレットがまるで得体の知れない密林のように思えたものでした(本当だよ。まさに『フェルトセンス』だね)。
それが、だんだんと音を覚えるにしたがって密林が草原になり、草原が区画整理されていき、やがては自分の手のひらか何かのように思えるようになりました。

そうなるとしめたもの。
譜面を初見で弾ける…とまではいかないものの、譜面を見ながら音をなぞれるようになるのです。

これが、子供らしいロックミュージックに対する憧れから、音楽という高みの、ほんのふもとに到達した瞬間。

別の話。

神学校に行っていた時の事。

最初に私たち牧師のタマゴたちがうけるショックは、それまで聖書勉強会で親しんだ感覚的に分かりやすい聖書読解から、いきなりアカデミックな聖書読解へ放り込まれる事にあります。
当時のヘレニズム世界やハムビラ法典を初めとする歴史的経緯だけでなく、用いられている言葉の数や意味、そしておよそキリスト教らしい「優しさ」からかけ離れた組織神学まで…

そこで私たちは、聖書の世界がいかに「キリスト教」からかけ離れた世界かを体験し、同時に人々がどのようにして「キリスト教」を「構築」したかを、みっちりと学ぶ事になるのです。

私たち神学生たちは、まず最初に次のような疑問を持ちます。
「結局、私たちは何を勉強しているのだろう?」
つい勉強が進むにつれて、枝葉の議論にばかり目が行くようになるんですよね。

「何だよ、『連帯説』って?アウグスティヌスの説との比較と反論?それって、聖書と何の関係があるのぉ~???」という具合に。

でも、勉強が進むにつれて、神学生たちは次のような疑問を持つようになります。

「結局、あなた(先生や著名な神学者あるいは学説)は何が言いたいの?」

膨大に伸びた枝葉を書き分けて、ようやく幹へ到達できた瞬間です。
そしてようやく、私たち学生は未熟ながらも資料や神学校の先生を通して、アウグスティヌスやルターたちと対話できるようになるのです。

何事も、分かってしまえばきっと単純なものなのでしょう。
でも、その単純な幹へ到達するには、無駄な試行錯誤と退屈なルーチンワークを延々と繰り返す必要があるのです。

勉強や実践を通して、私たちはその単純さへ手を伸ばそうとします。
つまり、「要するに…」が言えるようになるためなのです。
その単純ささえつかんでしまえば、そこからイマジネーションは広がりを見せます。

それは疑問であったり、アイデアであったり、あるいは別概念との繋がりであったり。

私が仕事で取り組んでいる事柄も、きっとそうなのでしょうね。
私がいまだにイマジネーションの停滞や膨大な枝葉に苦しむのは、まだ幹を掴んでいないからでしょうね。

業務の改善やスタッフに対する統制のなさ、そして従業員の私に対する違和感に、これから間違いなく発生するであろう反発…。

まだまだ試行錯誤は続きます


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