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贖罪へ [徒然草]

昨日、ブログをアップした後に改めて思ったのですが、なぜかニューエイジやスピリチュアルな方々って、普段は科学を万能主義的に捉えて批判をするのに、自分たちの主張の裏づけは好んで科学を用いるんですよね。

そんなことをするから、話がややこしくなるのに。

科学万能主義が素晴らしいなんて、当然ナンセンスな考え方です。
しかし、科学以外のものをひっくり返したら今の問題が解決するという発想も、同様にナンセンスです。

別にスピリチュアルにならなくったって、幸せになれるだろうに。
今の現実の理由を「スピリチュアルでない事」に求める必要が、どこにあるのだろう?

まぁ、進化心理学が大好きという事も、精神構造が唯物的であるがゆえになせるわざ。
ただ、こんな私が実はクリスチャンで、一時期牧師になるべく神学校に通っていた…と言ったら、やっぱり意外ですよね。


時々思うことがあります。
私は「転んで」しまったのかな?と。

ここから話す内容は、かなり私的なものです。
多少不愉快な記述もあるかもしれません。興味のある方は、「続き」をご覧下さい。

私が洗礼を受けたのは20歳の時。

小学校2年生の頃から家庭が荒れ始め、その結果私は性的なもの、暴力やネグレクト等、様々な虐待を父から受ける事になります。
小学生の頃はひたすら感覚を殺して耐える日々が続いたのですが、体力が付き始めた中学生の頃を契機に、私は父の暴力に対して暴力を以って対抗するようになりました。

しかし、そんな状況を見かねた周囲は、私をキリスト教系の更生施設に強制的に入れてしまいます。それが17の時。

更生施設の生活は、キリスト教系であっても特別宗教的ではありませんでした。
たまに牧師が来て聖書の話をしますが、我々入所者はボーっとしてそれを聞いているだけ。
後はカウンセリングと肉体労働。

まぁ、今まで「殴る・蹴る」使ってきた体力を、多少は生産的なものに使いましょうね、というお話(笑)。

そうした更生施設での半年間を経て、私は社会復帰しました。
その時の私の精神状態は相当に穏やかなものになっていたのですが、それと同時に今まで自分のしたことに対して、強烈な罪悪感を覚えるようになったのです。

私が暴力を振るった対象は父だけではありませんでした。
あらゆる対象に暴力を振るった事が強く私にのしかかって来たのですが、特に祖父と弟にしたことについては、慙愧に耐えない思いをずっと引きずるようになりました。

そして、そんな自分自身をどうしても許す事ができなかったのです。

そうなると、私がこの世で生きている、存在していると言う現実がとても苦しいものに変わっていくんですよね。

私は一体何のために生きているのだろう?
果たして私は生きていていいのだろうか?
死ぬと言う以外に罪を償う方法はあるのだろうか?

いつも、そんな事ばかりを考えていました。

自分の存在は耐え難い。
しかし、私は生きなければならない。
では、その意味は?生きていて良いという保証は?

その時に脳裏をよぎったのが、キリスト教でした。

今思い返すと、許されると言う事を必死になって求めていたんだなと思います。
ある種、キリスト教と自分を同化する事によって、自分の存在を肯定しようとしていたのでしょう。

幸い、更生施設で多少なりともキリスト教の知識を仕入れていたのと、そこでの生活の中で三浦綾子の著書を読んだ事がきっかけとなり、社会復帰した後も自分なりにキリスト教の本は何冊が読んでいました。だから、多少馴染み深さも感じていました。

ゆえに、キリスト教というものに対して、そう抵抗感を感じる事も無く、タウンページで教会を調べて、よさそうと思った場所にコンタクトを取ったのです。


…おっとっと。
話が長くなってしまいました。
また続きは次回の更新で。
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